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 たとえば。
 10÷5はどうしたって2で。
 三角形はいつでも全部で180度で。

 少しだって、揺るぎはしない。

 …でも。




**



 学食はピーク時を迎えて騒がしさをましている。
 けれどもそんな話し声などまるで耳を素通りして、気がつくと頭のなかは不毛な堂々巡りに巻き込まれてしまう。

 頼りなく漂うようなうどんを一本、箸で掬い上げるようにして、しばらく凝視した。
 ほんのり羞恥の色がほほににじむ。

 …ヒトのこと…いえない、かも…。

 そっと目を伏せて心のなかでそう呟いた瞬間、一人の青年の姿が脳裏をよぎった気がして、氷柱は慌ててかぶりを振った。
 はっとわれに返って顔を上げると、目の前の彼女は不可思議そうに目を瞬いている。
 やがてちいさく息をつくと、ついさきほどいったのと同じ言葉を繰り返した。
 「…ねえ、氷柱…。ほんっとに今日も素うどんでいいの?」
 やや、眉がよっている。
 「お昼くらいなら、おごるよって言ってるのに」
 言いさしながら、自分の前においてあるプレートと素うどんとを見比べて、まだ手をつけられないでいるらしい。
 「だって…一昨日おごってくれたじゃない。いくら安くても…そういうわけにいかないよ。
 親しきなかにも…礼儀あり、デス」
 …でも…ありがとう。
 そういって氷柱がやわらかく笑むと、ゆかりはさきほどより少し大きく嘆息し、天井をほんの一瞬仰いだ。
 「…氷柱、ほんとうにこれから苦労するよ?」
 「…え?」
 唐突に話の矛先が変わった気がして、目を瞬いて見るけれど、目の前の彼女はただじっとこちらを見つめている。
 「氷柱はさ…いつも真面目だし、けじめを大切にしてて…礼儀だっていいし…。でもなんていうのかなあ。
 なんか…どうしてもときどき、ちょっと、イライラする」

 箸を止めて、軽くくちびるを噛むようにした。
 いつも心のどこかで気にしている場所が、ちくりと鳴る。

 「たまにはさ、もっと…こう、どん!って、甘えてほしいの」
 彼女の視線は思いのほか、真剣だった。
 互いに思い浮かべていることが、食事ではない場所へと次第に移っているのがわかる。

 トレーに乗っているふたりのお昼は、少しずつ温度を下げはじめていた。

 「…黒崎さんのこと。
 これからもずっと…好き、なんでしょ?」
 落ちた声のトーンを受け止めながら、氷柱はもういちどくちびるを軽くかんだ。
 そうして迷いなく、こくん…と深く頷いてみせる。

 そこだけは、自分にウソをつけないと心にさだめた想いだった。
 彼のしていることがなんであっても、自分の目指しているものが何であっても。

 その感情を読み取ったらしいゆかりは「うん」とちいさく声を漏らすと満足げに頷き返し、やや思案するように一言ポツリと言った。
 「ああいうことは…10÷2は5、とかいう話じゃないんだし」

 「……っげほっ!」
 「…ちょ…っ。何?どうしたの?」
 「ううん、な、なんでもないよ」
 なんでもなくても、思わずむせてしまう。
 「わかってる…。うん。わかってるよ…」

 そう。そんなことはもうずっと前から、わかっているはずの、こと。

 考えがシンクロしたことに驚いたとは露知らないゆかりは、少し慌てた様子で言葉を重ねた。
 「あ…っ、ねえ。べつに、変な意味で言ってるんじゃないんだからね?」
 その瞬間互いに省みる景色があって、少しだけ微妙な空気が流れるけれど、早々に切り替えたのはゆかりのほうだった。
 「あたし、負け戦はしないことにしてるんだ」
 氷柱を通り越したどこかを見るような視線のままにいう声にさきほどまでの真剣なトーンは消えていて、それは少し軽くふわりとしたものに変わっている。
 「負け…」
 視線を氷柱に戻すと、ニコリ、と笑った。
 「前にも言ったでしょ?黒崎さんは、氷柱ばっかりみてるって」
 「ゆかり…」
 それをいったきり、氷柱のくちびるは空を切った。

 肯定も否定も、今の自分は出来ないと思った。
 彼女のいっていることをどうしても実感できない自分がいる。
 どうしたって、彼がいちばんに見据えている場所がどこなのか、それは目にも明らかだから。
 
 けれど。

 「あのヒト面白いよね。すっごい詐欺師のくせに、そういうのは顔に出るんだもん」
 ふふ、とゆかりはおかしそうに笑ってみせた。

 彼女がみた彼は、どんな顔をしていたというのだろう。
 たぶんそれは、ふたりが気づかぬままの色…なのかもしれなかった。
 台風の目のなかにいれば、嵐を知らずにいるように。 


 ふいに。
 彼に逢いたくなった。

 昨夜は戻ってきた気配もなく、確かめることもできずに出てきたけれど。





**




 バイトを終えて帰途に着くころ、日はとうに落ちていた。
 氷柱はアパートが見える少し前でいちど立ち止まると、そっと左胸に手を当てて目を伏せ、深呼吸した。

 あのアパートに戻るまでの道は、ここからはひとつしかない。
 けれど、自分の目の前にいくつもの道があるのを知っている。

 このままどうすることもできずにただ、そばにいるのか。
 彼をなんとしてでも光ある場所へと手を引いていくのか。
 それとも、自分の志とは裏腹に、彼のしていることのすべてを受け入れるのか。

 …あるいは。
 どれを選び取ることも、辞めてしまうのか。

 は…っと目を瞠ると、氷柱は星を隠している雲の厚いくらい空を見上げた。

 ずっと。
 ダメなものはダメだと信じてきた。
 けれど。
 彼と出逢ってから思い知った。

 世界は答えの見つからない割り切ることのできないもので、あふれかえっている。
 それが大きな世界でも、どんなに小さな世界でも。
 今の、自分の心のなかでも。

 幾つもの道を前にしてどうすればいいのか、今の自分にはまだ選び取ることはできなかった。
 それでもたった一つだけわかることがある。

 彼に惹かれた自分から、逃げないでいようと決めたこと。
 もしも赦されるのなら、彼の心に耳を澄まし続けたいと。

 …そう、願っている。

 「…あ」

 気がつくと、雲間からわずかに月のひかりがさしていた。
 静まっていた鼓動がざわめきをはじめる。
 煩くなり始めた心音を鎮めたくて、服をきゅっと握り締めながら足を早め、アパートの前の前にくるころには、氷柱は少しばかり駆け足になっていた。
 プラスとマイナス。どちらも想像しながら部屋に戻ると、壁の向こうからテレビの音が漏れ聴こえている。

 「帰ってるんだよ…ね」
 バクバクと鳴る心音は、もう、駆け上がったせいなのか、はやっていた気持ちのせいなのかわからなかったけれど、氷柱はほう…と胸をなでおろした。
 かばんを床に置いたままぺたんと座り込み、壁に背を預けた。
 眼を瞑る。
 こうしていても、彼の何も見えず、何にも触れられず。

 それは、自分の抱いた想いのほかには答えがまだ見つからないことと、どこか似ている。

 それでも。
 この薄い壁1枚の向こうに今、彼がいるのがわかる。
 無事で。
 きょう、あなたがここにいて、よかった。
 ただ、それだけのことが。

 たった今、すぐそばに見つけたほんのちいさな安堵が、この胸を優しく満たしてくれるのがわかって。
 涙が零れそうになった。





FIN.






初めてでこのややこしさはいったい…(大汗)。
黒崎さんいません(爆)。オリジナルゆかりさまがお強すぎる(…)
すべてが別人28号になっておりますが…いちど書いてみたかったということで…;;
萌えないお話で失礼いたしました(汗)。
(2007/02/27)